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1886 九州に新たな光が灯る

不連続シリーズ 九州地方電気事業史を読んで
第1回
1886 九州に新たな光が灯る


 それまではの蝋燭やランプとは違う、新たな光「電灯」が九州で初めて灯った。そして、小さな電気事業が幕を開けるまでの物語。



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九州初の電灯 長崎紡績所と長崎電灯
 九州で初めて電灯が灯ったのは何時で何処なのか、それを確定するのは難しい。有力な説は、1886年8月、長崎紡績所であるとの説である。このとき灯ったのは、紡績所内に試験的に設けられた2000燭光のアーク灯であった。実に蝋燭の2000倍の明るさを持つ電灯は、さぞかし明るかったことであろう。そして1888年12月、6.3kWの直流発電機を導入し、紡績所内の電灯を本格的に運用し始めた。さらに、経営者 山口徳太郎は、電気事業に乗り出すことを決め、89年、長崎電灯という会社を設立した。送電の開始はまだ先となる。
 それと同時期、第十八国立銀行の創業者の一人、松田源五郎が長崎自調電灯という会社を立ち上げることを計画していた。こちらは、長崎電灯と異なって交流を用いることとしていた。供給地域は長崎電灯と重複し、両者は対立、誹謗中傷合戦にまで発展した。直流を推進したエジソンと、交流を推進したテスラの電流戦争の縮図が、ここに発生してしまったのである。これはいけないと、松田に発電機を販売した大阪電灯の土居通夫が仲裁に乗り出した。これが功を奏し、山口と松田の両陣営が一体となって、長崎電灯を立ち上げることとなった。
 この後、長崎電灯に不幸が訪れる。この時代に電力事業を始めようとしていた他の企業も苦しめられた不況と、長崎紡績所の倒産である。これにより発電所用地の取得に手間取ってしまう。結局、発電所を建設開始したのは1892年7月であり、既に1年前に熊本電灯が送電を始めていた。九州で最も早く電灯を利用し、電気事業にも最も早く目をつけた長崎電灯だったが、事業の開始は九州初を逃してしまうこととなった。

長崎電灯の発電設備
 電力需要は瞬く間に増加し、1893年に導入された直流24kWと交流35kWだけでは1894年に供給が限界に達したため、96年に新たな設備を追加した。2年もの間があるが、この時代だから許されたことだろう。
設置年動力出力容量(kW)電圧(V)交流直流周波数(Hz)
1893汽力24450直流---
351000単相交流125
1896601000
19001202300
1903300230060


もう一つの九州初 集成館事業
 薩摩藩藩主であった島津斉彬は、積極的に海外の技術を取り入れようと考えていた。そこで、現在の鹿児島市磯地区に、日本初の近代工場群「集成館」を立ち上げた。この事業を「集成館事業」と呼ぶ。ある説では、1882~83年ごろ、この集成館のある場所の近く、島津家磯別邸にて、5kWの水力発電によるアーク灯が灯されたという。これは『かごしまの電力史』九州電力鹿児島支店,1969年,p3 によるが、正確な記録は発見されていない。もしこれが本当だとすれば、九州に初めて電灯が点ったのはこちらであるということになり、しかも日本初の水力発電であるということになる。もう少し正確に記録が残っており、かつ本格的な電灯利用は、その後の鹿児島紡績所のものからとなる。
 日本最初の洋式紡績所であった鹿児島紡績所は、「集成館事業」の1つとして作られた。1890年、紡績所の蒸気動力を用いて15.6kWの発電機を設置し、島津家の磯庭園に、室内白熱灯250灯、600燭光の屋外アーク灯6灯、そして紡績所には白熱灯80灯を設置した。1892年には、集成館事業の再整理が行われ、鉱山機械の製造、銃剣、陶器の製造を行う、「就成所」が新たに設置された。この動力として、邸内の保津川の上流から水を引いて水力発電を始めた。小規模ではあったが、これが九州で最初の水力発電だと考えられる。なお、このとき発電力が低下し、電灯が暗くなったという証言が記録されている。集成館関連の自家発電は、鹿児島電気からの供給に切り替わる1898年まで続いた。


九州初の電気事業 悲劇の熊本電灯
 一般の需要家に配電を行う電気事業を九州で始めて行ったのは、熊本電灯であった。始めに設けられた発電所は、熊本城内であった。現在の高橋公園や、日本たばこ産業熊本支店がある一帯である。
 熊本電灯の発足も、たやすいものではなかった。1886年には、西南の役が起きており、熊本城やその周囲は焼け野原となっているなど、情勢が不安定だったのである。しかも、熊本電灯発足時の株式の株金は、分割払い込みとなっており、昭和23年恐慌の影響で、株金を最初の一部しか払わないまま脱退する者が続出した。そのような熊本電灯を後押ししたのは、陸軍であった。熊本に駐屯していた陸軍第6師団は、夜間にも訓練ができるように、電灯を導入しようと考えたのである。第6師団参謀の坂本純熙少将は、電力事業をよく理解していた。そのため、軍から発電所の敷地の無貸与が行われ、万が一電力事業が失敗した場合、陸軍が引き継ぐとの約束まで交わされた。
 陸軍の協力を受けてからは、事業開始の準備は比較的順調に進み、1891年6月第6師団の兵舎にて電灯の点灯試験が行われた。このことは新聞に取り上げられたという。そして1891年7月、ついに熊本電灯は事業を開始、これが九州で初の電気事業となった。
 電灯の申し込みは予想に反して多かった。何を勘違いしたのか「電灯油を売ってほしい」という者が電灯会社に長蛇の列を作ることもあったという。1年後には需要が1000灯以上になり、すでに電力供給は逼迫していた。また、電灯の灯った陸軍歩兵第23連隊には、奇妙な噂が起こった。夜、寝ている兵士たちがうなされる、というのである。祟りだとか、化け物の仕業であるとの噂にまで発展した。だが、これは建物に電灯をつけたからではないか、ということになった。今まで蝋燭やランプしか見たことの無かった兵士たちは、明るい電灯にショックを受けたようだ。
 熊本電灯の経営は順調だったように見えるかもしれない。しかし、石炭の産出地から離れた熊本では炭価が高いにもかかわらず、需要家の料金負担力が低いという問題があった。事実、熊本電灯の電気料金の高さを嫌って、熊本紡績は自家発電を採用している。電気料金を上げるわけにもいかないため、熊本電灯は石炭に依存しない水力発電を開発する必要に迫られた。1894年、1000kWの水力発電所を白川と黒川の合流地点に計画するが、この計画は実行されなかった。このことは、熊本電灯の体力を徐々に奪っていくこととなる。結局、火力発電の効率を上げることになり、新しい発電機を導入する計画となった。
 その後も需要は伸び続け、設備の老朽化も激しかった。そこで、発電所の更新、拡張が必要になったが、発電所は陸軍から借り受けた敷地であり、煙突の近くに火薬庫があって、それ以上の拡張は不可能であった。そして、新しい発電所敷地を探すことになった熊本電灯を悲劇が襲う。1897年1月23日、汽缶に繋がるパイプ破裂する事故が起こる。さらに、翌年12月23日には、汽缶本体破裂する事故となってしまった。資金面でのやりくりが苦しかったため、不足した出力を過負荷運転でまかない、老朽化が進行したことが原因であると考えられる。これにより、1月15日まで一部地区が停電となってしまう。さらに、その後も断続的に停電が生じた。これが解消されたのは、詫間郡本山村へ発電所が移設された1898年4月のことであった。
 悲劇はまだ終わらない。1900年10月、2度目の汽缶破損事故が起きてしまう。このときは、事前に更新用設備一式をアメリカに発注していたのだが、その到着が遅れたことが原因であった。1901年1月、なんとか工事が終わり、2月には停電が解消するが、熊本電灯の体力はかなりそぎ落とされた状態にあったと思われる。
 熊本電灯に最後に降りかかった悲劇は、取引先銀行が休業してしまったことであった。もはや体力の残っていなかった熊本電灯は、1902年5月に解散し、熊本電灯所が事業を引き継ぐこととなった。熊本電灯は、たった10年と少しという短い歴史に幕を下ろした。

熊本電灯の設備
 1892年に高電圧の発電機を導入しているが、発電所から3km離れた大江渡鹿の工兵営舎へ送電するためであった。しかし、これは故障がちで、経営不振の元ともなった。
発電所名設置年動力出力容量(kW)電圧(V)交流直流周波数(Hz)備考
城内発電所1891年6月汽力20125直流---1898年本山へ移設、1904年廃止
1892年7月602000単相交流1251898年本山へ移設、1901年廃止
本山発電所1898年1月6022001001904年予備へ
1901年2月602300133
1904年10月2002300二相交流60 
1910年9月2002200 




--用語解説--
アーク灯
 アーク放電を用いる電灯。非常に明るいため、家庭内では用いにくく、大規模な建物や屋外で使用された。点灯時は一瞬電極を接触させて引き離し、小さな放電を発生させる。この放電が電極を気化、イオン化し、空中での電流の通り道ができる。イオン化で放電が生じ、放電でイオン化が生じるので、放電が持続する。これがアーク放電である。高温になるため、電極が溶けてしまうとアーク灯は寿命となる。
二相交流
位相が90°ずれた2つの単相交流を組み合わせたもの。(電圧の波が1周期の1/4だけずれた2つの交流を組み合わせたもの。)モーターを効率よく回すために考えられた。通常4本の電線で送電する。3本の線でも可能だが、うち1本に大きな電流が流れるので、1本だけ太い線にすることが必要になる。のちに三相交流に取って代わられた。


--その他の解説--
周波数について
 表に書いた通り、交流周波数には100Hzを超えるものも使われていた。高い周波数が用いられたのは、電灯のちらつきを少なくするためである。しかし、送電距離が長い場合は周波数が低いほうが効率がよい。そこで、25Hzや他国では16.67Hzなどの低い周波数も用いられた。その後50Hzと60Hzが主流となるのは、ちらつきの少なさと送電効率の両方を満たす適度な周波数ということや、普及度などの理由からであろう。そのほか、低周波では直流への変換が上手くいかないことも理由になったようだ。参考
なお、九州では、25、40、50、60、100~160Hzという多種の周波数が使われることとなり、後の周波数統一の妨げになった。





 ここまで、長文を読んでいただきありがとうございました。
 誤字、脱字、内容の誤り等ありましたらごめんなさいm(_ _)m その場合はお手数ですがコメント欄にお願いします。


11/1/23 アーク灯の説明を修正

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コメント

本山発電所の所在地

九電より問い合わせの回答が来たのでお知らせいたします。この発電所は1898年に飽託郡本山村に建設され、1918年に廃止されています。ごく近い場所だと思われる現在の日吉変電所は1925年に飽託郡日吉村に建設されているので「別の位置と考えている」ということでした。言い回しから察するに、九電でも発電所の正確な場所は分からないようです。やはり古い地図を探すしかないですね^^;

Re: 本山発電所の所在地

お知らせ頂きありがとうございます。九電も分かっていないとは驚きですね。
古い地図を探したいですが、意外と時間が無くて…。

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